番組制作の大変さ

この国では「表現の自由」が認められているものなのですが、同時に「倫理」というものもあります。公共の電波で配信していいもの、逆に不適切であるものがはっきりとわかれているのです。

番組を作るということは「クリエイティブ」なことです。一言で「番組」といってもさまざまなものがあります。ニュース、天気予報、バラエティ、ドラマなどです。それらの番組は見る人に「こういう番組です」とわかりやすく伝えると同時に、見ていたり聴いていたりして飽きないような「刺激」、「面白さ」を与える必要があるのです。ただ無難なだけでは番組として面白みに欠けるというものです。ですが、やり過ぎて倫理を逸脱するようなことになれば、それは放送することができなくなります。

見ている側も安心感を持って番組を視聴することができるようなものが大切です。子どもが見てはいけないものや、特定の誰かが傷つくようなものは「NG」なのです。それは誰もが楽しむことができる「公共」のものであるからです。映画などであればジャンルを区切ったりあらかじめ視聴者を制限したりすることで「見てはいけない人」を定義することができるのですが、一般的に放送される番組ではそれはできないものなのです。

そのような制約を乗り越えて番組を作ることは、真の意味で「一人」では難しいものです。ひとつの番組には複数の人が関わっているものです。「番組を作りたい」と考えることは誰にでもできるものなのですが、それでは自分は「どんな役割」を担いたいのか、ということが最初に問われることです。

映画やドラマではなくても、その番組には「作家」がついています。全体の構成を考え、与えられた時間内で成立するような内容に仕上げる責任を負っています。そしてそれらを実際に収録するためには、その内容を的確に出演者に伝える必要があります。番組の構成に出演者が関わっているようなことは少ないのですから、それらの内容を手短に、かつ明快に伝え、番組の趣旨に沿うような振る舞いをしてもらう必要があります。

それらの取り組みは日々行われているものです。テレビやラジオは毎日放送されていて、土日に休みであるとか、祝日に休むようなことはありません。放送が終わるのは深夜です。そして、また早朝から放送が始まるのです。

番組制作に関わるかぎりそれらの繰り返しです。いつまでも終わることがないサイクルの繰り返しです。華やかなのは画面の中だけです。裏方となる制作側は、日々締め切りとの戦いです。不眠不休で働くなどということは当たり前で、「疲れた」などという甘えたことは言っていられません。体調もおちおち壊すことは出来ず、プレッシャーとの戦いです。

それでも、番組制作という仕事は世の中に何かを「発信」するという醍醐味があります。カメラマンであれば自分が撮影した映像で誰かが感動したりするということに対して誇りを持つものです。つまり、「番組制作がやりたい」という思いを「自分は何をやりたい」という深い部分まで発展させなければ「やらされる」仕事ばかりになってしまい、長続きしないのです。何かを続けるためには「モチベーション」が大切なのですが、そのモチベーションを維持するためには自分の「意志」が必要なのです。